1、聖徒の交わりとしての教会
 使徒信条には、「我は…聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と告白していますが、これは、教会とは、具体的には「聖徒の交わり」であるということを言っています。教会は、本質的には、建物でも、組織でもありません。それは「まじわり」です。私たちが神と共に歩み続けるためにも聖徒の交わりが必要なのです。
「まじわり」と言っても、たんなる「ソーシャル」のことではありません。教会は、「聖徒」、つまりキリストを信じ、この世から選び分かたれた者たちのまじわりです。ですから、教会のまじわりは、同じ日本人だから、同じ故郷の人だから、同じ学校の同窓生だから、同じ職種の人だからというので、保たれていくものではありません。たとえ言葉や文化、世代や境遇が違っても、キリストを信じる信仰によって結びあわされていくところ、それが教会です。教会は、好きな人同士が仲良くするところではありませんから、人間的なコネクションを越えて、互いを「キリストにあって」見るところです。使徒信条は「聖なる公同の教会」のすぐあとに、「聖徒の交わり」という言葉を続けています。それによって、「教会」とはつまり「聖徒の交わり」なのだと言っているのです。「聖徒の交わり」は、「教会」を言い替えた言葉です。


 コリント第一の手紙1章には次のように記されています。「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1~3節)
ここには、「コリントにある神の教会」が、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と言い替えられています。
 「聖徒」というと、私たちは、使徒ペトロやパウロ、アッシジの聖フランシスコ、マザー・テレサなどの「聖人」と呼ばれる、優れた人々を思い浮かべる方もあるでしょう。自分が「聖徒」などと呼ばれると恥ずかしい気持ちになります。しかし、聖書で使われている「聖徒」というのは、そうした道徳的にも立派な人だけを指しているのではありません。むしろ、聖書は「神の前にはすべての人が罪人」であると言っているのです。罪深い者であっても、その罪を赦され、きよめられた人々が「聖徒」とよばれているのです。コリントの教会には分派の争いや信者同士の訴訟沙汰、不品行や偶像礼拝、聖餐や礼拝の混乱、はては死者の復活の否定などがありました。そんな教会であっても、その信徒が「聖徒」と呼ばれているのです。コリントの信徒たちは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された」のです。罪の中にあった私たちが「聖徒」と呼ばれていることの中に、イエス・キリストの大きな恵みを見ることができます。
 したがって、「聖徒の交わり」という言葉は、教会が完全な人々ではなく、不完全な人間の集まりではあっても、神の恵みによって赦され、きよめられながら、完成の時を待ち望んでいることを言い表しているのです。それは、使徒信条で「聖徒の交わり」の後に「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と続くことからも分かります。つまり、「聖徒の交わり」とは、「罪の赦し」に基づき、「身体のよみがえり」を待ち望み、「永遠の生命」に生きる交わりであるということです。
 教会は「聖徒の交わり」であり、「聖徒の交わり」とは教会のことです。教会の信徒が「聖徒」とは呼ばれていても、まだ聖徒として完全な者ではないように、教会も、「聖なる教会」と呼ばれていても、弱さや欠けをたくさん持っています。それで、教会に理想を求めて来た人が、教会の中にそれとは反対のものを見聞きして教会から去ってしまうこともあるようです。
 説教で語られていることと、信徒が実践していることがあまりにも違っている、と思うようなこともあるかもしれません。神が教会を「聖なる教会」と呼び、信徒を「聖徒」と呼んでくださるのは、教会も信徒も聖なるものへと変えられていくことを願っておられるからです。教会が聖なるものを目指し、信徒がきよめられることを求めているなら、たとえ不完全であっても、そこに「聖徒の交わり」があるのです。


2、世から選び出されて、キリストに所属する者
 それぞれのイエス・キリストとの交わりが、聖徒の交わりとつながっていくのです。
ヨハネによる福音書17章には、主イエスが、弟子たちにお語りになった次のような言葉が記されています。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
ここでイエス様は、弟子たちが、神によってこの世から選び出された人たちであり、彼らに真理を表し、彼らを守り導いてくださることを述べておられます。
ここで覚えたいことは、イエス様は、一人一人を導いてくださいますが、彼らを教会に召し集めて、信仰共同体を通して彼らを導いてくださるということです。同じくイエス・キリストを信じる「教会」という信仰の共同体をたて上げてくださり、それによって彼らは養われ、支えられ、成長させられていくのです。
私たちはキリストを救い主として信じる時、キリストのからだに属するようになります。ローマ12:4-5には、「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」とあります。キリストに属するということは、キリストのからだにの一部になるということです。そして、キリストのからだの一部になるということは、教会の一員になるということです。なぜなら、教会は「キリストのからだ」だからです。
 「キリストを信じてもよいが、教会には属したくない。」と言う人がいますが、旧約聖書においても、新約聖書においても、信仰共同体によって、神と共に歩むことを神様は願っておられることが分かります。キリストを信じることは、キリストに属することであり、キリストに属することは、キリストのからだである教会に属することだからです。
 ローマ1章11-12節でパウロはこう言っています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」信仰や御霊の賜物は分け与えることができるものであり、教会は、それを分け与えるところなのです。わたしたちの信仰や賜物は分かち合うことによってさらに豊かになり、それによって私たちは霊的に成長していきます。
 ハイデルベルク信仰問答の問55は、「『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか」と質問しています。その答えはこうです。「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっているということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることを、わきまえなければならない、ということです。」ハイデルベルク信仰問答は、キリストが与えてくださった恵みに共に与り、自分に与えられた賜物を他の人と分かち合う、そこに「聖徒の交わり」があると説明しています。これはとても優れた理解であると思います。教会は共に聖なるものを分かち合う場です。教会はその分かち合いによって成長していくのです。


3、天の教会と地上の教会
 「聖徒の交わり」は、さらに、「天の教会」と「地上の教会」との「交わり」を指しています。「使徒信条」が作られた時代は、迫害の時代でした。多くのクリスチャンが殉教していきました。先週まで一緒に賛美を歌い、共に祈りあっていた仲間が、ひとり去りふたり去っていきました。地上に遺された者は、当然、天を見上げるようになりました。そして、世を去った人々が天で主イエスと共にいて、天にも、先に世を去った人々の教会があるということが、理解されるようになりました。
 イエス・キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだです。信徒のひとりひとりは、キリストのからだのそれぞれの器官です。キリストは天におられ、私たちは地上にいます。私たちはキリストの手足となって、地上でキリストのみこころを行うのです。しかし、同時に、からだの各器官が互いに互いを支え合っているように、キリストのからだに属するひとりひとりは、キリストによって支えられていることはもちろんですが、他の誰かに支えられ、また、他の誰かを支えているのです。
 教会は天にもあって、天の教会も、地上の教会もひとつのからだです。かしらであるキリストは天におられるので、天の聖徒たちは、もっとキリストに近いところにいて、地上の聖徒たちを支えてくれています。天の聖徒たちは完全なものとされていますから、地上の私たちが天の聖徒たちのために何かをすることはできませんし、その必要もないでしょう。けれどもこの地上で起きていることは、天にいる天使たちや聖徒たちにも関心事であるようです。ルカによる福音書15章7節には、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」と言われています。明らかに天の教会と地上の教会はつながっていることが分かります。
 天の聖徒たちが地上の聖徒たちのためにしてくれていること、そのひとつは「証」です。ヘブル人への手紙11章にはアベルから始まって、サムエルや預言者たちにいたるまで、信仰に生きた旧約の聖徒たちの証が書かれています。12章には、この人たちが「雲のような証人」となって私たちを取り囲んでいると言われています。旧約時代の聖徒たちも、新約の聖徒たちも、同じ天の教会にいて、地上の信仰者たちに「証」をしてくれているのです。
 では、彼らは何を証ししているのでしょうか。ヘブライ11:1には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。そして、11:6には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」と書かれています。天の聖徒たちは、「神は求める者に報いてくださる」ということを証ししているのです。
 主イエスは、ペトロに「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)と言われました。 
イエス・キリストは、教会は「よみの力」に勝つと力強く宣言しておられます。迫害者たちは、信仰者を殺害することによって教会を滅ぼそうとしました。しかし、信仰者たちは天に凱旋し、そこで地上の教会に証しをする者となり、地上の教会は天の証人たちに励まされ、さらにキリストを証しする者となっていったのです。迫害は天の教会を大きくし、聖徒たちのために「天の扉」を開く結果となったのです。殉教者たちは滅びたのではありません。天にあって、安息と栄光と喜びに包まれているのです。天の教会は、教会が「よみの力」に勝利していることを証ししています。
 私たちは、天の聖徒たちから、信仰を受け継ぎました。それだけでも感謝しなければなりませんが、そればかりでなく、信仰をどのように働かせればよいのか、信仰にどう生きれば良いのかを、天の聖徒たちの生涯と模範によって教えられてきました。聖書に登場する信仰者や、歴史に名を残している信仰者ばかりでなく、私たちの身近な信仰の先輩たちの生き様を通しても、私たちはどんなに教えられ、励まされ、導かれてきたことでしょうか。
 ヘブル12章2節には「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」と教えられています。私たちの目は、まっすぐイエスに向けられるべきです。しかし、イエスを見上げようと天を仰ぐと、イエスの傍近くにいる「雲のような証人」も見えてきます。天の聖徒たちの証の声が聞こえてきます。天の聖徒に目を留め、その証に耳を傾けることによって、よりよくイエス・キリストご自身を仰ぐことができるのです。
 教会もまた堕落し、誤った教えに惑わされ、ほんとうの教会でなくなることがあります。しかし、地上の教会がキリストと聖霊によって天の教会との交わりを保っている限り、それは何度でも息を吹き返し、この世に「聖徒の交わり」を生み出します。そのことを信じて、天を見上げ、天の教会と共に主イエス・キリストをあがめようではありませんか。
使徒信条にある「教会を信ず」との告白は、「聖霊を信ず」の告白の中で位置づけられています。聖霊なる神の御業として、教会を受け止め、信じるのです。教会とは、建物を指しているのではありません。「では、中身だ。イエス様を信じる者の集まりだ。」その通りですが、私たちの意志を根拠として集まった集まりが教会ではありません。教会とは、「エクレシア」という言葉で、「呼び出された者たちの集まり」という意味です。教会は、聖霊なる神が呼び集めて下さった群れです。創造者なる神の壮大なご計画の中で呼び集められたのです。(エペソ1:3~5)また「教会を信ず」という告白が個人の「罪の赦し」「からだのよみがり」「永遠のいのち」の告白よりも先に来ています。聖霊は、教会を造られ、教会の交わりの中で、私たち一人ひとりを新しく生まれさせ、育んで下さるのです。教会と私たち一人ひとりは、不離一体の関係です。

私たちは、使徒信条において「聖なる公同の教会」と告白しますが、「聖なる」とは、道徳的な聖さを指しているのではなく、「区別された」「取り分けられた」という意味です。神により、この世から取り分けられた共同体であることを指します。それは何か優れた点があったとか、私たちの側に根拠があるのではなく、神ご自身が一方的な恵みにより、御心のままに、この世から神のものと取り分けて下さったのです。続いて、「公同の」とは「普遍的な」との意味です。一つの普遍的な教会ということです。「目に見えない教会」との表現がしばしばなされます。時代を越え、国や民族を越え、神のものとされている教会です。そして、地域教会は、見えない教会の現われです。
 イエス・キリストを信じる人たちは「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」(ヨハネの福音書17章6節)と言われているように、この世から選び出された人々です。
その教会で何が行われるのかということが続いての告白です。「聖徒の交わりを信ず」と告白されています。イエス・キリストは教会のかしらであり、教会はイエス・キリストのからだです。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1章22~23節)
「聖徒の交わり」の第一の意味は、教会のかしらである主イエス・キリストとの交わりを表しています。(Ⅰヨハネ1章3節)主イエス・キリストとの交わりをなすところが教会です。そして主日礼拝が何よりもそのことの中心です。私たちは、それぞれの場から神に呼び集められ、共に神の御前に出るのです。そして、神の御言葉と聖餐の恵みにより、イエス・キリストを仰ぎ見、神の祝福に与るのです。そして、神の恵みに応答し、賛美や祈りや献金を通し、主イエス・キリストを称え、感謝を捧げ、自らを主にお捧げしていきます。 
第二の意味は、主イエス・キリストを中心とした互いの交わりを表しています。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1章23節)
使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エフェソ2章20~22節)、
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(4章16節)、
私たちは、組み合わされ、ともに建てられていくのです。主イエス・キリストを中心として互いに交わり、励まし合い、赦し合い、愛の内に教会と私たち一人ひとりが建て上げられていくのです。教会はキリストのからだであり、私たち一人ひとりはなくてはならない大切な器官であるのです。
主にある交わりは、教会の本質的なことです。パウロはそのことをエペソ書の2章~4章で記し、5章からは、この世にある歩みについての教えがなされていきます。主日毎に、主と主にある互いの交わりに与り、私たちは、家庭(夫婦、親子の関係)や職場に主に遣わされ(5章)、信仰の武具を身につけて世の闘いの中に出ていくのです。(6章)こうして、教会と私たち一人ひとりが建て上げられていく時に、神ご自身が救われる人を加えて下さるのです。(使徒2章47節)

第17章  聖徒の交わり     理解のために

1) 聖徒とはどのような人たちなのでしょうか。

2) 教会とはどういうものだと思いますか。

3) キリストによってこの世から選び出された人々はどのような人々で、どのような働きをしていくのでしょうか。

4) 聖徒の交わりとはどういうものであると思いますか。